一 どういう場面か:合意できないまま時間が過ぎる
修正案のやりとりが3往復を超え、こちらの譲歩だけが積み上がっていく。担当者は「今さら降りられない」と言う。この状態になると、残りの条件も押し切られます。
交渉の目的は問題の解決によるミッションの実現であって、合意ではありません。したがって、交渉の結果、不合意になることも十分あり得ます(注1)。降りるという選択肢を持っていない交渉は、条件を押し返す力を持ちません。
二 何を見るか
1 バトナ:合意できなかった場合の代替案
不合意になった場合でもミッションを実現することを目的にするのであれば、代替案が必要です。これがバトナ(BATNA, Best Alternative to a Negotiated Agreement)です(注1)。バトナは交渉学研究最大の発見と言われている重要な概念で、不合意に備えて他の選択肢や他の相手による問題解決をあらかじめ準備しておくことは、交渉の成功確率を高めるために必要なアプローチです(注1)。
置く時期も決まっています。代替選択肢の検討は、交渉の5段階プロセスの最後(第5段階)に位置づけられ、不合意となった場合でもミッションの実現可能性を残すため、リスクの視点から、あらかじめ準備段階で設定しておく必要があります(注2)。交渉が行き詰まってから考えるものではない、ということです。
2 自社のバトナと、相手方のバトナ
バトナは双方が持っています。相手方にとって代わりの取引先が多いほど、こちらの押し返しは効きません。
リスクマネジメント的アプローチでは、この相手と契約を締結した場合のリスクと、締結しなかった場合のリスクの両面から考えます。締結しても実現が困難で負担の大きい条件に合意すれば、短期的には利益が得られても中長期的には損害が膨らむ可能性があり、締結しなければ、この相手以外の代替案を考えておかないと交渉の目的を実現できないからです(注3)。両面を並べて初めて、いまの条件が飲める条件かどうかが判断できます。
3 どこで降りるか
バトナと並んで置かれるのが、目標の幅です。ミッション(今回の交渉で目指すゴール)、ゾーパ(ここでは、最高と最低の2つの幅のある目標)、バトナ(不合意への備え)は、事前準備の論理的フレームワークです。これを用いることで、交渉の準備を論理的に行い、準備した交渉シナリオを検証することもできます(注4)(注5)。交渉学で一般にいうZOPA(合意可能領域)は、双方が受け入れられる条件が重なる範囲を指すので、自社だけの目標の幅とは区別しておきます。
降りる基準は、この「最低の目標」の位置です。これを下回る条件しか得られないなら、バトナを採る。そう決めておけば、交渉の場で決断する必要がなくなります。
三 直し方
1 バトナを具体的に書き出す
「他をあたる」はバトナではありません。代替先の名前、そこでの条件、切り替えに要する期間と費用まで書けて、初めて比較の対象になります。
法務の立場からは、事業部門に次の3点を確認します。
- この取引がまとまらなかった場合、代わりに何をするか
- それを実行すると、いつ、いくらかかるか
- その代替案と比べて、いま提示されている条件は有利か
2 バトナを改善する
バトナは固定ではありません。他社と並行して話を進める、社内で内製する案を検討する、開始時期を後ろにずらす。こうした手当てをすると、同じ交渉でも押し返せる範囲が変わります。
ただし、並行交渉は相手方に伝え方を誤ると信頼を損ないます。後述の三の3のとおり、交渉が大詰めに至ってからの離脱には責任が生じ得ます。
3 降り方には作法がある
降りる自由があることと、どう降りてもよいことは別です。
ドラッグストアの出店をめぐる建物賃貸借の交渉が大詰めに至った後で打ち切られた事案で、裁判所は、契約法を支配する信義誠実の原則は既に契約を締結した当事者のみならず契約締結の準備段階においても妥当するとし、当事者間において契約締結の準備が進捗し、契約締結交渉が大詰めに至って、形式的作業を残すのみになり、相手方において契約の成立が確実なものと期待するに至った場合には、このような期待を保護する必要があり、その一方当事者としては相手方の期待を侵害しないよう誠実に契約の成立に努めるべき信義則上の義務がある、と述べました(注6)。そのうえで、正当な理由なく契約の成立を妨げる行為をして交渉の相手方に損害を生じさせた場合には不法行為を構成する、としています(注6)。
この事案で責任が認められた理由は、打ち切りそのものではなく、その進め方でした。裁判所は、いったん当事者間で認識の共通化が図られた条項について違約金額の見直しを求め、10月28日まで直接交渉をすることもなく時間を経過させた点を捉えて、契約締結に向けて誠実に交渉を継続したとはいい難く、引渡しの中止や条項の見直しの求めに正当な理由があったとも認められない、と判断しています(注6)。
降りるなら、相手方が期待を固める前に、理由を示して伝える。これが実務上の結論です。
四 相手方への説明のしかた
降りる可能性を伝えるときに、相手方を脅す必要はありません。条件と時期の問題として述べれば足ります。
- 「この条件では、社内の承認が下りません。○月○日までに折り合わない場合は、いったん見送らせてください」
- 「他の選択肢も検討していますが、御社と進めたいと考えています。そのため、この2点だけは調整をお願いします」
前者は期限を区切る形、後者は優先順位を示す形です。いずれも、こちらに代替案があることを事実として伝えるもので、相手方の期待を煽ってから翻すやり方とは違います。
五 どこまで踏むか
| 取引の性質 | どこまで準備するか |
|---|---|
| 定型の少額取引・ひな型での発注 | 代替先が複数あることを確認できれば足りる |
| 継続取引・基幹システム・独占的な提携 | 代替案を具体的に書き出し、切替費用と期間まで算定する |
| 相手方が唯一の供給元・独占的地位にある | 自社のバトナが弱いことを前提に、価格以外の条件(期間・解約・値上げの手続)で手当てする |
降りる基準は、交渉の前に決めておきます。交渉の場で決めようとすると、それまでに使った時間と手間が判断を曇らせます。
本稿で扱わなかったこと
交渉を打ち切った側の責任(契約締結上の過失、交渉の不当破棄)そのものは、04章の別稿「契約締結上の過失・交渉破棄の責任」が正面から扱います。本稿が引いた札幌高判も同稿で詳しく扱っています。譲歩の順序と社内での事前合意は別稿「交渉の準備:譲歩可能性の事前設計」、ミッションや目標の設定手順は別稿「交渉の5段階プロセス:3つのアプローチをどう回すか」で扱います。
参考文献等
註
(注1)一色正彦=竹下洋史『法務・知財パーソンのための契約交渉のセオリー──交渉準備から契約終了後までのナレッジ〔改訂版〕』(第一法規、2020)55頁
(注2)前掲注1・50頁
(注3)前掲注1・16頁
(注4)前掲注1・40頁
(注5)前掲注1・51頁(図5「ミッション/ゾーパ/バトナの概念図」)
(注6)札幌高判令和元年9月3日判タ1473号33頁(判示部分は36〜38頁。平成31年(ネ)第28号)
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