一 問題の所在:契約が成立していなくても責任を負うことがある
契約を結ぶかどうかは原則として自由です(民法521条1項)。ただし、契約は申込みと承諾がそろえば成立するので(民法522条)、契約書に署名する前でも、合意が成立していれば断ることはできません。そして、まだ契約が成立していない段階でも、交渉の途中で一方的に打ち切った側が、相手方の損害を賠償するよう命じられることがあります。
契約の交渉を始めると、①全くの他人の段階(交渉を一方的に破棄しても問題にならない)、②信義誠実の原則に支配される契約準備段階(契約関係に準じて一定の法律上の義務を負う)、③契約が成立した段階(契約によって完全に拘束される)という3つの段階が順に現れます(注1)。本稿は、このうち②の段階の責任を扱います。
二 制度の枠組み
1 明文がないこと
民法には、契約締結前の交渉段階の責任を定めた条文はありません。情報提供義務や契約交渉の不当破棄による責任については、民法改正の過程で提案もなされましたが、最終的に規定を置くことは見送られました(注2)。
2 信義則(民法1条2項)を根拠とする構成
裁判所は、民法1条2項の信義則を根拠にしています。
最高裁は、マンションの購入希望者が、歯科医院にするためのスペースについて注文を出し、レイアウト図を交付し、電気容量の不足を指摘して売却予定者が容量増加のための設計変更と施工をすることを容認しながら、交渉開始から6か月後に自らの都合で契約を結ばなかった事案で、購入希望者は契約の準備段階における信義則上の注意義務に違反したものとして、設計変更と施工によって売却予定者が被った損害を賠償する責任を負うとした原審の判断を是認しました(注3)。双方の過失割合を5割ずつとした原審の判断も是認しています(注3)。
下級審の判決も、同じ構成をとっています。ドラッグストアの出店を予定する会社と建物所有者の賃貸借交渉について、裁判所は、信義誠実の原則は契約締結の準備段階にも妥当し、契約締結の準備が進捗し、交渉が大詰めに至って形式的作業を残すのみとなり、相手方が契約の成立を確実なものと期待するに至った場合には、その期待を侵害しないよう誠実に契約の成立に努めるべき信義則上の義務があり、正当な理由なく契約の成立を妨げる行為をして相手方に損害を生じさせた場合には不法行為を構成する、としています(注4)。
3 信頼利益と履行利益
賠償の範囲は、原則として、契約の成立を信頼して支出した費用などの「信頼利益」にとどまります。契約が締結されていたら得られたはずの利益(履行利益)は、原則として認められていません。
公共事業を受注したリース会社との交渉から、照明機器のサプライヤーが一方的に離脱した事案で、控訴審は、離脱は相手方の法的保護に値する合理的な期待ないし信頼を侵害する不法行為にあたるとしたうえで、賠償の対象は契約の締結を前提とする行動によって生じた損害(信頼利益の損害)であり、契約が成立したとは認められず、契約を締結すべき義務もない以上、契約が締結されていたとした場合に得られたであろう利益を請求することは認められない、としました(注5)。一審が約5270万円の支払を命じていたのを取り消し、請求を全部棄却しています(注5)。
もっとも、学説には異なる見解もあります。契約法の体系書は、「信頼利益」の概念は必ずしも明確でなく、これに限定する必要はないとし、不法行為責任にせよ契約責任にせよ、損害賠償の範囲に関する一般法理によって決すれば足りる、としています(注6)。
4 情報提供義務違反という類型
交渉の打切りとは別に、交渉の段階で相手方に必要な情報を伝えなかったことが問題になる類型もあります。
最高裁は、信用協同組合が経営破綻のおそれを説明しないまま出資を勧誘した事案で、契約の一方当事者が、契約の締結に先立ち、信義則上の説明義務に違反して、契約を締結するか否かに関する判断に影響を及ぼすべき情報を相手方に提供しなかった場合には、不法行為による賠償責任を負うことがあるのは格別、その契約上の債務の不履行による賠償責任を負うことはない、と判断しました(注7)。説明義務違反によって締結に至った契約を、その義務の根拠とするのは背理だという理由です(注7)。この結果、損害賠償請求権には不法行為の消滅時効が適用されることになります(注7)。
三 解釈:どこまで進んだら責任が生じるか
1 交渉の成熟度
責任が認められた判決では、交渉がかなり具体的なところまで進んでいます。二の2の賃貸借の事案では、約5か月以上の協議を経て、最も困難な交渉課題だった賃料保証の期間を含めて認識の共通化が図られ、賃貸人が契約書の最終案を送り、賃借人側の担当者も異論を述べずに社内の最終決裁の準備を進めていました(注4)。裁判所は、この段階で賃貸人は契約の成立を確実なものと期待するに至ったと評価し、賃借人側もそれを認識していたとみています(注4)。
2 相手方の期待の正当性
相手方の期待は、法的保護に値するものでなければなりません(注4)(注5)。二の2の事案で、賃借人側は、社内の最終決裁が得られなかったことを理由に契約に至りませんでしたが、裁判所は責任を認めています(注4)。社内決裁がまだ済んでいないことは、相手方の期待を裏切ってよい理由にはなりません。
3 破棄の理由の正当性
打切り自体が問題なのではなく、正当な理由がないことが問題です(注4)。同じ事案で、賃借人側は、引渡しの中止を求め、双方がすでに乗り越えたと認識していたはずの条項の見直しを持ち出し、直接交渉をしないまま時間を経過させました(注4)。裁判所は、誠実に交渉を継続したとはいいがたく、見直しの求めにも正当な理由があったとは認められないとしています(注4)。
四 契約実務への還元
1 交渉を打ち切るときの手順
打ち切る側は、次の点に注意します。
| 場面 | 手当て |
|---|---|
| 社内決裁が通るか不確かなまま交渉している | 決裁が必要なこと、決裁が得られない可能性があることを、交渉の早い段階で相手方に伝えておく |
| 相手方が契約を前提とした準備(設計変更、発注、人員の確保)を始めた | 準備を止めるよう求めるか、費用負担について合意する |
| 打ち切ると決めた | 理由を書面で伝え、条件の再交渉の可能性があるなら示す。黙って時間を経過させない |
2 「本書は法的拘束力を有しない」と書いておく
MOUやLOIには「法的拘束力を有しない」と書かれていることが多いですが、その意味は大方の場合、その書面によって契約が成立したわけではないということであって、全く何らの法的な効力がないということを意味しているわけではありません(注8)。主要な事項の同意が確認され、あとは細目を詰めるだけという段階で理不尽な要求を突きつけて破談に追いやった場合には、損害賠償の問題になりえます(注8)。断り書きを入れるのであれば、「当事者の一方から何らの理由なくして交渉を中止した場合においても相手方から損害賠償請求をすることができない」という趣旨の条項を入れておく必要があります(注8)。
この条項は、打ち切る可能性がある側にとっての備えです。相手方からの提案でこの条項が入る場合は、自社が交渉を前提に費用を支出する前に、費用負担の合意を別に結んでおきます。
3 立証の負担(負けた事例から)
交渉を打ち切られた側が請求する場合、信義則違反を認めてもらえても、損害の立証で負けることがあります。
リゾートホテルの誘致計画をめぐる事案で、裁判所は、相手方の態度が信義誠実の原則にもとるものだと認めながら、請求を棄却しました(注9)。原告が主張した損害は合計約1億3600万円でしたが、そのうち企画設計や基本設計図の作成費用などは、交渉を開始する前に行った業務の費用で、相手方の行為を信頼して生じた損害とはいえず、計画の遂行によって得られる履行利益のための先行投資費用であって、契約締結上の過失によって賠償されるべき信頼利益ではない、とされました(注9)。出張費用も、交渉開始前のものは相手方を信頼して生じた損害とはいえず、開始後のものは別の仲介業務の費用だとされ、契約の成立を信頼して支出した費用は存在しないと判断されています(注9)。
請求が認められても、自分の側の落ち度で減額されることがあります。解体工事で使う設備を下請業者が約2億6000万円で購入したのに発注がなかった事案で、裁判所は、発注の見込みを説明しなかった元請業者の説明義務違反を認めましたが、下請業者の過失を6割として、損害の4割だけを認めました(注10)。下請業者は、発注を確約させる条項を入れた契約書の作成を求め、契約の締結を待って設備を発注することができたのに、そうしなかった、という理由です(注10)。
| 請求する側が確認すること | 理由 |
|---|---|
| 支出が交渉開始後のものか | 交渉開始前の支出は、相手方を信頼して生じた損害とされない(注9) |
| 支出が契約の成立を信頼したことによるものか | 契約で得られたはずの利益は、原則として請求できない(注5)(注9) |
| 自社の側に、契約締結を待たずに支出した落ち度がないか | 過失相殺で大きく減額される(注3)(注10) |
交渉の打切りで責任を問えるかは、支出を「契約の成立を信じて使った費用」として立証できるかで決まります。契約締結前に大きな支出をするなら、その費用の負担を先に書面で決めておくことです。
本稿で扱わなかったこと
交渉を打ち切られたときの独占交渉義務の効果は別稿「独占交渉義務と、破ったときの効果」、LOI・MOUの拘束力の振り分けは別稿「LOI・MOU・基本合意書の法的性質:名前ではなく条項ごとに決まる」、日本の裁判所が契約の成立をどう認定するかは別稿「日本の契約成立は『総合判断』で認定される:申込み・承諾型との違い」が扱います。
参考文献等
註
(注1)田路至弘=齋藤弘樹『法務担当者のためのもう一度学ぶ民法(契約編)〔第3版〕』(商事法務、2024)30〜31頁
(注2)前掲注1・31頁注1
(注3)最判昭和59年9月18日集民142号311頁(昭和59年(オ)第152号、判タ542号200頁、判時1137号51頁)
(注4)札幌高判令和元年9月3日判タ1473号33頁(平成31年(ネ)第28号)
(注5)東京高判令和5年9月6日判タ1526号96頁(令和4年(ネ)第5685号)
(注6)中田裕康『契約法〔新版〕』(有斐閣、2021)115頁
(注7)最判平成23年4月22日民集65巻3号1405頁(平成20年(受)第1940号)
(注8)前掲注1・38〜39頁
(注9)東京地判平成22年10月6日判タ1356号191頁(平成20年(ワ)第29356号)
(注10)東京地判平成21年7月31日判時2064号75頁(平成19年(ワ)第6764号、判例秘書L06430672)
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