一 どんな事案か:契約書がないまま取引が進んだ
契約は、契約書がなくても成立します。契約書のない口頭だけの合意も契約であることに変わりはなく、これは契約自由の原則のうち「方式の自由」と呼ばれるものです(注1)。
では、契約書がないとき、裁判所は何を見て成立を判断するのか。本稿は、書面があったのに成立が否定された事件から、その裏返しとして「何があれば成立したのか」を考えます。
事案は次のとおりです(注2)。
- 上場会社(スーパーマーケット)は、あるグループ会社に店舗のシステム開発などを委託していました。そのグループの最高責任者は、この上場会社の取締役も務めていました。
- この取締役が辞任届を提出した直後、上場会社の社長に対し、システムを買い取ってほしい、「高いの安いの言うのは嫌いだから、自分を信頼してほしい」と述べました。社長は、その場で最高責任者がグループ側の従業員に口述筆記させた手書きの確約書(システムを言い値で買い取ることを確約する旨のもの)に、会社の肩書なしの個人名で署名し、サイン印を書きました。取締役会などでの協議や承認は、事前にも事後にもありませんでした。
- その後、両社の担当者が参加する「システム化会議」で、買い取るシステムの範囲を特定する作業が進みました。
- グループ側は、約1か月後、書面で売買代金を5億円と指定し、支払を求めました。上場会社は一貫して高額すぎると反論しました。
グループ側の会社は、確約書と代金の指定によって売買契約が成立したとして、5億円の支払を求めて提訴しました(注2)。
二 裁判所は何を判断したか
裁判所は、請求を棄却しました(注2)。
確約書については、買取範囲も金額も社内で全く検討していない段階で、社長が会社の肩書なしの個人名で署名し、手書きのサイン印を記載したという作成経緯と、「言い値で買い取る」という、上場会社が法的合意を締結する際には極めて異例の記載内容から、社長の個人的な意思を表明した書面にすぎず、法的拘束力のある合意が成立したとは認められない、としました(注2)。
そのうえで、確約書の前後の事情を総合しても売買契約の成立は認められないとしました(注2)。システム化会議は技術的な事項を話し合う場で、代金について資料を示して検討した形跡がないこと、上場会社が当事者となる5億円の売買では、目的物と代金額を確定し、支払期限・支払方法・違約罰などの諸条件を交渉で確定したうえで代表者印を押した契約書を作成して成立させるのが通常であること、売買契約書が作成されていないこと、請求していた側の最高責任者自身が仮契約書の作成を申し入れており、契約書の作成をもって契約が締結されるという認識だったとうかがわれること、などを総合した判断です(注2)。
裁判所は、売買が諾成・不要式の契約であることと、企業間の売買が上のような経過をたどるのが通常であることは、何ら矛盾しないとも述べています(注2)。
三 なぜそう判断されたのか
1 書面によらない契約の効力
契約書がなくても契約は成立します。ただし、どんな合意でも法的拘束力を持つわけではありません。合意に法的拘束力を持たせるためには、対価支払の約束、契約書の作成、全部または一部の履行など、合意を履行する意思が明確であることを要します(注3)。
本件では、代金の約束は「言い値」で、金額はありませんでした。署名は個人名で、会社の意思決定の手続も経ていません(注2)。合意を履行する意思が明確であることを示すものが欠けていたことになります。
契約書がないまま成立が認められた事件と比べると、違いがはっきりします。別稿「日本の契約成立は『総合判断』で認定される:申込み・承諾型との違い」で紹介した事件では、見積書を基に施工内容を協議し、請負人が実際に工事に着手していたことなどから、請負契約の成立が認められています(注4)。
2 何が証拠になったか
裁判所が重く見たのは、確約書の文言そのものより、その作られ方と、その後のやりとりでした。
| 証拠 | 裁判所の評価(注2) |
|---|---|
| 確約書 | 個人名の署名とサイン印、社内検討なし、「言い値」という異例の記載 → 個人的な意思の表明 |
| システム化会議の議事録 | 買取範囲の特定作業にすぎず、代金を検討した形跡がない |
| 代金指定の通知書 | 一方的な指定。被告は一貫して高額すぎると反論 |
| 仮契約書の作成の申入れ | 請求側自身が、契約書の作成で締結されると認識していた |
文書が民事訴訟で最も重要な証拠方法とされるのは、証言や陳述と比べて、紛争が起きる前の時点で通常のビジネスや交渉の過程で作成され、内容が固定されているからです(注5)。意思表示が記載された文書を処分証書、見聞した事実や感想が記載された文書を報告文書として区別します(注5)。売買契約書があってその成立に争いがなければ処分証書による認定なので難しくありませんが、契約書(や登記などの直接の手掛かり)がない事案では、ほかの事実から経験則で契約の締結を推認していくことになり、認定はやや難しくなります(注6)。
本件の確約書は、形の上では処分証書に近いものでしたが、作られ方から、会社の意思表示を記載したものとは認められませんでした。
四 この判断から契約書に持ち帰るもの
1 契約書がない取引で何を残すか
契約書を作らずに取引を進めることは、実務では珍しくありません。その場合でも、次のものを残しておけば、後から成立と内容を示せます。
| 残すもの | 示せること |
|---|---|
| 金額と対象を書いた見積書と、それを承認した記録(承認者の役職・日付) | 対価の合意 |
| 発注書・注文請書、または発注メールとその返信 | 申込みと承諾(またはそれに近いやりとり) |
| 打合せの議事録(金額・範囲・時期を決めた回) | 交渉の到達点 |
| 着手・納品・入金の記録 | 履行の開始 |
| 社内の決裁記録 | 会社としての意思決定 |
本件では、このうち金額の合意と、会社としての意思決定が、そもそもありませんでした(注2)。
2 契約書を作らないという選択をするときの備え
代金が決まらないまま取引を始めざるをえない場面はあります。代金額が確定していない段階で契約を締結する必要がある場合、代金額を空欄にしたり、単に「後日協議する」と記載したりしただけでは、売買契約の成立が認められないリスクが高くなります(注7)。手当てになるのは、売買代金の算定方法を定めること、最低売却価額と増額要因を定めることです(注7)。算定方法によって将来の事情から代金額が自動的に確定するなら、契約時に代金額が確定していないことを理由に請求が排斥されるリスクは低くなります(注7)。
契約書を作らない、あるいは作れないときは、少なくとも、①対価の決め方、②誰が会社として承認したか、③いつから履行を始めるか、の3点を、メールや議事録など紛争の前に作られた記録に残しておきます。
契約書がなくても契約は成立します。ただし、成立を示すのは契約書の代わりに残した記録です。代金と承認の記録がなければ、書面があっても成立は認められないことがあります。
本稿で扱わなかったこと
契約書という書証が裁判でどう評価されるか、メールや議事録の証拠力は24章、締結の記録の残し方は08章で扱います。交渉が進んだのに契約に至らなかった場合の責任は、04章の別稿(契約締結上の過失)が扱います。
参考文献等
註
(注1)喜多村勝德『契約の法務〔第2版〕』(勁草書房、2019)95頁
(注2)東京地判平成17年2月23日判時1946号82頁(平成15年(ワ)第7476号、LEX/DB文献番号28112526、判例秘書L06030702)
(注3)前掲注1・7頁
(注4)東京地判令和2年1月16日(平成29年(ワ)第5311号、判例秘書L07530125)
(注5)田中豊『事実認定の考え方と実務〔第2版〕』(民事法研究会、2021)74〜75頁
(注6)前掲注5・201〜202頁
(注7)秦周平ほか編『契約書リーガルチェックのポイント──事例でみるトラブル条項例』(新日本法規出版、2020)判例Case5(言い値で買い取る旨の確約書では売買契約は成立していないとされた事例)
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