一 この条項は何をしているのか
1 取引が先に始まってしまった
発注書のやりとりで取引が始まり、何か月か経ってから取引基本契約書を作ることになった。こういう順序は珍しくありません。既に開始している取引について、事後的に契約書を作成することもあります(注1)。
このとき、契約書の日付を取引が始まった日にしてしまう処理が見られます。取引開始当初の時点を契約締結日とする、いわゆるバックデートした契約書です(注1)。
2 日付を遡らせずに、効力を遡らせる
遡及条項は、契約書の日付は実際の日のままにして、契約の適用だけを過去に及ぼすための条項です。あえてバックデートによることなく、むしろ契約の適用そのものを遡らせるのが、この条項の趣旨です(注2)。
これができるのは、契約締結日と契約の効力発生日(有効期間の始期)を別のものとして区別できるからです(注3)。効力発生日を締結日より後に置くことは、実務上きわめて一般的に行われています。有効期間を2024年1月1日から同年12月31日までとする契約書を、2023年12月20日に締結するような場合です(注3)。遡及条項は、その逆向き、つまり効力発生日を締結日より前に置くものです。
有効期間の始期を契約書の日付より前にできることは、別稿「契約期間の始期・終期と期間の計算方法」でも触れました。本稿は、その書き方と限界を掘り下げます。
二 よくある条項例
時間的な範囲と対象の取引を書く型です。
第○条(遡及的効力) 甲(売主)及び乙(買主)は、○年○月○日以降に甲乙間で既になされた本件商品を目的とする取引についても、格別の合意のない限り本契約を遡及的に適用することを確認する。(注4)
効力発生日だけを書く、短い型もあります。
本契約は,●●年●月●日から遡って効力を有する。(注3)
三 問題点
1 日付そのものを遡らせてしまう
遡及条項を置かずに、日付欄の日付を遡らせる処理がいちばん多い事故です。
契約書は、多くの契約では成立の要件ではありません。しかし、両当事者の合意があったことと、その内容を示す最も有力な資料であり、紛争になれば、どのような合意が成立していたのかについて重要な証拠になります(注2)。
その契約書の日付は、契約成立日を示す重要な意味を持ちます。契約はその成立時以後の当事者間の権利義務を規律するのが原則で、実際の紛争では、契約の成立時点をめぐって争われることが往々にしてあります(注2)。このため、バックデートは行うべきではありません(注2)。
どこまでの日付なら書いてよいかの線引きは、次のとおりです(注3)。
| 契約書に書く日付 | 評価 |
|---|---|
| 最後の当事者が署名押印した日 | 実務上多く、それでよい |
| 署名押印日より前の、両当事者が実質的に合意した日 | 契約締結権限を有する者の確認を経て合意に至っている限り、問題はない |
| 両当事者の合意よりも前の日 | 虚偽の事実を契約書に記載することになり、許されない |
取引の開始日に日付を合わせたくなる場面は、ほとんどが表の3行目に当たります。取引が始まった時点では、まだ契約書の内容について合意していないからです。契約の効力を過去の時点まで遡らせたい場合でも、契約締結日をバックデートすることは望ましくありません(注5)。
2 遡る範囲が曖昧
遡及条項を置けば済む、というわけでもありません。契約の拘束力は契約成立時から発生するのが原則ですから、本来であれば遡及適用は避けるべきで、そもそも必要かどうかをよく吟味すべきです(注2)。必要となる場合には、どのような取引について、どの時期からの取引まで遡及させるのかを、それぞれ明確にすべきです(注2)。
二の1つ目の条項例は、「○年○月○日以降」で時間的な範囲を、「本件商品を目的とする取引」で物的な範囲を特定しています(注4)。2つ目の短い型は、時間的な範囲は決まりますが、どの取引に及ぶかは書かれていません。取引基本契約のように個別の取引が積み重なる契約では、遡る期間の発注のうちどれに本契約の条件が及ぶのかが、あとで問題になりえます。
3 遡る期間にすでに起きたことの扱い
遡る期間には、すでに履行が終わった取引も、すでに生じたトラブルもあります。遡及条項を置くと、その期間の取引にも、本契約の検査、契約不適合、損害賠償の条項が及ぶことになります。
たとえば、本契約が「納入後10日以内に検査する」と定めていれば、遡る期間に納入された商品の検査期間は、契約書を作った時点でとうに過ぎています。そのまま遡及させると、検査をしなかったことが、条項上は期間を徒過したことになってしまいます。二の1つ目の条項例が「格別の合意のない限り」と留保を置いているのは、こうした調整の余地を残すための書き方と読めます。
四 改善例
日付欄は、実際に合意した日にします。紙の契約書を郵送でやりとりすると、先に押す側と後に押す側で署名押印日にずれが生じるため、実務上は最後に署名押印する当事者の日付を締結日とすることが多くあります(注3)。権限者の確認を経て実質的に合意した日でもかまいません。紙の契約書に先行して、合意ができた時点でサインページをPDFで交換し、その日を締結日として記載するという工夫もあります(注3)。そのうえで、遡及条項に範囲と調整を書き込みます。
第○条(遡及適用) 1 甲及び乙は、本契約締結日前である○年○月○日以降に甲乙間でなされた本件商品の個別取引についても、本契約を適用することを確認する。 2 前項の個別取引のうち、本契約締結日までに納入を終えたものについては、第○条(検査)に定める検査期間は、本契約締結日から起算する。 3 第1項の個別取引に関し、本契約締結日までに甲乙間で書面により合意した事項があるときは、その合意が本契約に優先する。
1項は、時間的・物的な範囲の特定です(注2)。2項は、三の3で見た期間の徒過を避けるための手当てで、検査のほかに通知期間を置く条項があれば同じように書きます。3項は、先行した取引の中ですでに決めていたこと(単価の個別交渉など)を、遡及条項で上書きしないためのものです。
五 書き分けの分岐
| 場面 | 書き方 |
|---|---|
| これから始まる取引の契約書を作る | 遡及条項は置きません。効力発生日を先にするなら、有効期間の始期に日付を書きます |
| 取引が先行し、契約書が後追いになった | 日付欄は実際の合意日にします。遡及条項で、時間的な範囲と対象の取引を特定します |
| 先行した取引の中で、すでにトラブルが起きている | そのトラブルは遡及条項で一律に処理せず、別の合意書で個別に処理します。遡及条項の対象から外すことも考えます |
| 相手方のひな型に、取引開始日まで遡らせた日付が入っている | 日付を実際の合意日に直し、遡及条項に置き換えるよう求めます |
最後の場面では、相手方への説明に三の1の表が使えます。合意よりも前の日を締結日として記載することは、虚偽の事実を契約書に書くことになり許されません(注3)。効力を遡らせたいのであれば遡及の定めを置けば足り、日付を遡らせる必要はありません(注3)。遡及条項に置き換えれば相手方が遡らせたかった効力はそのまま確保できるので、日付を直すことは相手方に不利になる話ではありません。
本稿で扱わなかったこと
有効期間の始期と終期の数え方は、別稿「契約期間の始期・終期と期間の計算方法」が扱います。
署名押印の日がずれるときの締結日の決め方の詳細は、別稿「契約締結日をいつにするか」で扱います。
遡及させた契約書が、印紙税や会計処理の上でどう扱われるか、また当事者の間で遡及適用を合意したことが第三者との関係でどう扱われるかは、本稿では扱っていません。
参考文献等
註
(注1)弁護士法人飛翔法律事務所編『実務必携 契約書チェックマニュアル』(商事法務、2024)93頁
(注2)同94頁
(注3)幅野直人『企業法務1年目の教科書 契約書作成・レビューの実務』(中央経済社、2024)80〜81頁
(注4)前掲注1・93頁の条項例とチェックポイント❶
(注5)前掲注3・115〜116頁の演習問題①とその答え
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